漱石の夏やすみ 房総紀行『木屑録』/高島俊男

高島俊男の『漢字と日本人』は名著だ。なにしろ私は『漢字と日本人』をほとんど信奉しているのだからしょうがない。したがって「和語はなるべくかなで書く」という高島の方針にも私はおおいに賛同するのだが、しかしこの『漱石の夏やすみ』を読んで感じたことは「さすがにひらがなが多すぎるんじゃないか」ということだった。
本書では、上の方針をさらに推しすすめ、かなり思いきってかなの割合を増やしている。かんたんにいえば和語はほとんどすべてかなで書いている。
一番読みにくいと感じたところを引く。

福澤諭吉魯迅とは、ともにそれぞれのくにの近代の劈頭にあって、全面的西欧化を主張したひとである。しかし両者からうける感じはおおいにことなる。
福澤諭吉はアッケラカンとしている。あかるく、陽気である。いままでの日本はダメである。門閥制度は親の(かたき)で御座る。文明開化。西洋がすぐれているのだからすべて西洋にならおう。ふるいうわぎよさようなら、さみしいゆめよさようなら。
ふるいうわぎもあたらしいうわぎも、どっちにしてもかりぎなのである。かりぎでやってきたのが日本の本性なのだから、かりぎに抵抗はない。ましてこれまでのかりぎはあらためてみなおしてみればふるぼけてくらくておもく、こんどのはあかるくてかるくてべんりにできているのだからいうことがない。
もともと、よそのくにでできたものをかみくだいてのみこむのはお手のものである。日本の近代化、すなわち西洋化は、平地をゆくがごとく、すらすらと成功した。日露戦争の勝利がゴールである。ゴールに達するまで四十年かかっていない。明治の日本は、偉大といえば偉大だが、浅薄といえば浅薄である。漱石はこれを「皮相上滑りの開化」といった。福澤諭吉はえらいひとだが、浅薄の感はどうしてもつきまとっている。

読みにくい部分だけ引用すると全文ひらがなだらけなのかと思われかねないので一応前後も引用したが、ここでの注目は第三段落目、「ふるいうわぎも……」の部分だ。
なにしろ漢字が「日本」「本性」「抵抗」しかない。あとは全部ひらがなだ。なお「べんり」は間違いなく本文でもひらがなだが、これって和語なのか。まあいいけど。
「かりぎ」は「借り着」のことだろうが、最初に読んだとき、すぐには何のことか分からなかった。「うわぎ」はむろん「上着」のことだが、これも「漢字のほうが読みやすいなぁ」と感じる。
ここまでひらがなだらけの段落は他にはあまりない。そもそもこの「ふるいうわぎ」のたとえ話を取り去っても意味は通じる。そう気づいてみると、どうもこの段はわざと和語を多用して書いたフシがなくもない。「ふるぼけてくらくておもく」というところ、よくみると調子よく和語を三つ並べて五七調にしてるんですよね。
内容についていえば、漢文の話、日本人の文章の話などは、メインの「木屑録」の話の添え物という扱いではあるが、さすがにおもしろい。むしろこっちのほうがメインと言ってしまってもいいのかもしれない。しかし「ひらがなばっかりでちょっと読みづらいなぁ」という印象はぬぐえない気はします。