インストール/綿矢りさ

文庫化していたので買ってみようかと思って本を手にとってパラパラとめくったら活字が妙に大きくてなんだかバカにしてるように見えたので「これはワナだ。これを買うことは敗北を意味するぞ」と思って買わずにいたのだけれど、今日唐突に思いきって買っちゃおうという気にかられたのでつい買ってしまった。これは負けだ。税込399円の敗北。
買ってしまったのである。しかも読んだ。読んだだけならまだ崖のふちギリギリだが、読みはじめてすぐに、これはものすごくおもしろいのではないか、と思ってしまった。買った、読んだ、おもしろかった、というヤツだ。シーザーか。
「声に出して読みたい日本語」という本がある。いやオレは読んだことがないのでどういう内容か知らないのだが、声に出して読みたくなる文章というのは確かにある。それがこの「インストール」だ。
なにしろびっくりした。文章がリズムを刻んでいる。詩になっているのだ。いや「詩になっている」という言い方は適当ではないかもしれないが、調子よく整えられている。
調子のいい文章とはなんだろう。私なりに昔からあれこれ考えているのだが、よく分からない。
たとえば夏目漱石「坊ちゃん」の出だしの文章、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」は間違いなく調子のいい文章だ。リズムがある。あるいは芭蕉奥の細道の出だし「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。」もそうだ。
しかし芭蕉が調子のいい文章を書くのは言ってみれば当然だ。俳人なんだから。漱石がリズムのいい文章を書くのも言ってみればそういう才能なのだ。たしか俳句や漢詩にも長けているからな漱石は。オレもリズムのいい文章を書きたい書きたいと思ってこうしてウンウンうなって書いているのだがどうにもモノにならない。でもちょっとはどうですかね?
話がだいぶ逸れたが大丈夫ちゃんと戻ります、「インストール」はそういう点で非常にすぐれているのである。内容は、正直どうでもいい、つまりオレはどうでもいいと思った、ふうん女子高生が身分を偽ってエロチャットですか、それで? っていう感じだ。いやちょっと言いすぎたか、別に内容を悪くいうつもりがあったわけじゃなくて、文章がスゴイんですよお客さん、っていうことを言いたかった。
解説で高橋源一郎は、

『インストール』で、もっとも重要なのは、言葉が(日本語が)、ほとんど美しい音楽のように使われている(と感じられる)ことだ。それは、つまり、この小説が「完璧な日本語」で書かれているということだ。

といっている。完璧な日本語というのはまた大胆な形容だが、確かにこの文章は日本語としてすぐれている。英語に訳してしまったら、たぶん、ダメだろう。
しかしまた「完璧な日本語」という表現にはまた別の危険がはらんでいる。明治以後の文章というものは西洋からの翻訳小説の影響をおおいに受けている。そして西洋の小説の考え方はおおざっぱに言えばこうだ。
「内容がすべて。文章をどう書くかは枝葉末節にすぎない」
いやこれを本当に西洋の小説の考え方といってしまっていいかどうかは知らない。文章をどう書くかは重要であるにきまっている。しかし英語としての文章の良さ、リズムは日本語に訳してしまえば伝わらなくなってしまう。英語で書かれた文章ならば英語で読まなければ良さが分からない、というのはひとつの考え方だ。
しかしまた、英語をフランス語に直したり、ドイツ語をイタリア語に直したりしても良さが残る、という考え方もある。西洋ではそういう考え方をするらしい。あるいは、西洋ではそういう考え方をするのだ、と日本人は理解したらしい。では何が残るのか。内容である。したがってもっとも重要なのは内容ということになる。そうすると文章は隅に追いやられて、うまければいいけれどヘタでも別に、みたいな扱いになってしまうのである。「完璧な日本語」というのは、言ってみれば金粉みたいな、「わぁキレイだな」と言うだけのもののようになってしまっているのだ。
実はこれを書きながら「今さら『インストール』の感想文を書くのってアリなのか?」とちょっと不安になって一応検索してみたら思いのほかよろしくない評価を下されていたのでちょっと驚いた。内容がスカスカなのがお気に召さないようなのである。金粉がキラキラ輝いてるけどただの白飯だろというわけだ。
そんなことはない。「完璧な日本語」というのは強力な武器だ。金粉よりももっとキラキラ輝く鯛の尾頭付きだ。極上ステーキだ。なんだかたとえがあんまりよくないですかね。
そういうわけで、私は「完璧な日本語」(という言い方は、なおやはり誤解を招くので、調子のいい文章、とか、リズムのある文章、とか言ったほうがいいんじゃないかなと思うのだけれど)で書かれた、この「インストール」を断然支持する。
つまり私は「インストール」に完全敗北、白旗を振りますよと、そういうわけなのである。